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アルタクセルクセスの王宮址遺跡

アルタクセルクセスの王宮址遺跡

EU-27/2007

(日記を書いた当時は「予定」だったが、この両国は2007年1月1日を以って正式にEUに加盟した)


 ブルガリアの歴史 2005年9月23日

 僕は全然知らなかったのだが、最近相撲で琴欧州というブルガリア出身の力士が活躍しているらしい。史上最速の新入幕・三役昇進を果たし、今回の秋場所では優勝目前だとか。今回は彼の出身国ブルガリアの歴史について書いてみるか。

 ブルガリアはこのところ毎年のように通過しているが、車窓から眺めるだけでゆっくり見物をしたことが無い。受けた印象は田園の多い農業国、そして都市部がすさんだ貧しい国、というものである。これはあながち間違いでもなく、農業が国内総生産の13%を占め、一人あたりGDPは3100ドルといい、これはいずれもヨーロッパではそれぞれ最高・最低水準である。
 日本でブルガリアというと切っても切れないのはヨーグルトだが、「ヨーグルト」というのは本来トルコ語である(正確には「ヨールト」)。ブルガリアとヨーグルトが結び付けられたのはウクライナの生物学者イリヤ・メーチニコフ(ノーベル生理学賞受賞)が「ブルガリアに長寿が多いのはヨーグルトの常食による」と唱えたのがきっかけのようだ(ちなみに現在ブルガリア人の平均寿命は男69歳、女75歳で、とりわけ長くも無い)。日本でも学生時代の芥川龍之介が牛乳店を営む父親の為に「バルカン戦争(1912年)でブルガリア兵が勇戦したのはヨーグルトのおかげ」という宣伝コピーを作っているという。もっとも、、日本でヨーグルトが普及したのは戦後のことだろうが。
 ヨーグルトはそもそもトルコ語、バルカン戦争もトルコとの戦争だが、ブルガリアは隣国トルコとの腐れ縁がある。

 ブルガリアは面積11万平方キロ(日本の三分の一)、人口770万である。国土を東西に二つの山脈が走り、西の隣国セルビアとマケドニアの国境地帯は険しい山岳地帯だが、東は黒海に面し平野が広がる。北のルーマニアとはドナウ河で画されている。
 トルコをヨーロッパと西アジアを結ぶ巨大な掛け橋と見立てた時、ブルガリアはヨーロッパ側の橋のたもとにあたる。西アジアは最古の文明発祥の地だが、その影響もあってブルガリアではヨーロッパでも最も早く高度な文化が発達した。紀元前4600年頃のヴァルナの黄金遺宝はその代表格だろう。青銅器時代には地中海(ギリシャ)や中央ヨーロッパとの交流を示す遺物も発見されているが、紀元前一千年紀には北方の騎馬民族の影響を受けたトラキア人の文化が栄えた。トラキア人は古墳を多く作り、黒海沿岸に入植したギリシャ人の影響を受けた豪華な副葬品を埋葬し、ギリシャの歴史家ヘロドトスをして「世界最大の民族」と言わしめている。
 トラキア人は紀元前4世紀に南方のマケドニア(アレクサンドロス大王)によって征服されるが、これはマケドニアにとって全ギリシャ、ひいては西アジア征服の大きな原動力となった。アレクサンドロス王国の分裂、ケルト人の侵入を経て、紀元後45年にブルガリアはローマ帝国の支配下に入り、モエジア州に編入される。395年のローマ帝国東西分裂後は東ローマ(ビザンツ)帝国のトラキア州となった。
 ローマ帝国が弱体化した5世紀頃からヨーロッパでは民族移動が活発になるが、ブルガリアにはスラヴ族が定住した。ところが679年頃、東方のステップ地域でハザール族の圧迫を受けたトルコ系遊牧民のブルガール族が、アスパルーフ・ハンに率いられ来住、現地のスラヴ族と手を組みビザンツ帝国に対抗、681年には独立を認めさせた。これをもってブルガリア建国の年としている(第一次ブルガリア王国)。支配階級であったブルガール族は少数だったためやがてスラヴ族に吸収され、民族・国名にその名を残すのみとなった。

 ブルガリア王国は南方の文明国であるビザンツ帝国に殺到、その都コンスタンチノープルを包囲する(813年)ほどの強盛を誇った。ボリス1世治下の865年、キュリロス兄弟の伝道によりキリスト教に改宗した。キュリロスというとキリル文字の考案者として知られるが、ブルガリアは以来キリル文字を使用し、ギリシャ正教を奉じている。ボリスの息子シメオン1世のときに王国は全盛期を迎えるが、子の無い彼の死後王国は弱体化、1018年には「ブルガリア人殺し」と呼ばれたビザンツ皇帝バシレイオス2世により滅ぼされた。
 ビザンツ帝国は12世紀半ばにノルマン人の侵入を受けて混乱するが、それに乗じてイワンとぺタール・アセンの兄弟はタルノヴォ(現ヴェリコ・タルノヴォ。琴欧州の出身地)を拠点に独立する。これを第2次ブルガリア王国と呼ぶ。北方の遊牧民クマン族と結んでラテン帝国(第四回十字軍がビザンツ帝国を征服して建てた国)を攻撃し、マケドニアを征服した。イワン・アセン2世の治世下では独自の様式を持つ僧院が多く建設され、また1235年にはブルガリア総主教区が設けられ全盛期を迎える。しかし程なく北方から相次いで1242年にモンゴル軍、次いで1285年にタタール族の来襲を受け混乱、西方の新興国セルビアの攻勢もあって小国に分裂した。
 南方からはさらに強大なオスマン帝国が迫っていた。イワン3世は1386年にオスマン帝国に服属するが、1389年にはセルビアと共にコソヴォでオスマン軍を迎え撃ち敗退する。ブルガリアは1396年にはオスマン帝国に完全に征服され、その一州とされた。500年に及ぶトルコ支配の始まりである。
 イスラム教国であるオスマン帝国は住民にイスラムへの改宗を奨励したが、宗教に寛容な政策だったためキリスト教も残り、同じ市内にモスクと教会が混在するようになった。またキリスト教徒の子弟が徴集されてイェニチェリ(オスマン皇帝の親衛隊)とされた。17世紀以降は農民に対する収奪が激しくなり、オスマン帝国に対する反乱も度々起きたが成功しなかった。

 18世紀に入るとオスマン帝国は衰退を始め、一方でロシアが興隆する。ロシアは南方への進出を飽く無く繰り返すようになる。その最終的な目的地はギリシャ正教の総本山であり1453年以来のオスマン帝国の首都であるコンスタンチノープル(イスタンブル)だったが、その途中にあるブルガリアはロシアにとって大いに利用価値があった。ロシアへの親近感を得るため汎スラヴ主義を鼓舞し、その南下運動をオスマン(トルコ)帝国支配下のスラヴ族解放戦争と位置付けた。
 汎スラヴ主義に呼応して、オスマン帝国内では1875年にボスニア、ついで76年にブルガリアでも反乱が起きる。この反乱は失敗し1万5千人が虐殺されたが、この「トルコの暴虐」を口実として翌年ロシアはトルコに宣戦、大勝利を収めた。トルコとのサン・ステファノ条約によりブルガリアは自治公国とされ、事実上オスマン帝国からの独立を勝ち取った。しかしこの公国は北はドナウ河から南はエーゲ海、西はマケドニアを含むものであり(マケドニアはブルガリア総主教区に属するため)、また君主はロシア皇后の従兄弟アレクサンデル(ドイツのヘッセン・ダルムシュタット家出身)が選出されたこともあり、ドイツやイギリスなど西欧列強はこの「大ブルガリア」をロシアのバルカンへの影響力拡大として好まなかった。1878年のベルリン会議の結果、マケドニアやエーゲ海沿岸はブルガリア領から外された。
 「失地」回復に燃えるブルガリアはロシアやセルビアの意に反して1885年に東ルメリア(現ブルガリア南部)を併合、セルビアと戦争になったがロシアの援助無しで単独でこれに勝利し、同年アレクサンデルを退位させ、やはりドイツのザクセン・コーブルク・ゴータ家からフェルディナントを君主として迎えた。宰相ステファン・スタンボロフは西欧化政策を取ったが、対露関係を重視したフェルディナントにより解任されている。
 1908年に青年トルコ党革命が起きてオスマン帝国が混乱すると、フェルディナントはツァー(王)を名乗り、ブルガリアは名実ともにトルコから独立を果たした。

 オスマン帝国の弱体化により、その領土の分割をめぐりバルカン情勢は西欧列強も巻き込んで一挙に緊張した。1911年にトルコがイタリアにあっけなく敗れたのを見るや、翌年ブルガリア、ギリシャ、セルビア、モンテネグロは同盟を結びトルコに戦争を仕掛けた(第一次バルカン戦争)。トルコは敗退しそのヨーロッパの領土は同盟諸国により分割されることになったが、今度はその分け前を巡りブルガリアとその他の諸国が対立した。1913年、マケドニア「回復」を目指すブルガリアはその軍事力を過信してセルビアに侵攻するが、トルコやルーマニアを含む周辺諸国の袋叩きにあい大敗した(第2次バルカン戦争)。
 こうした混迷するバルカン情勢を受けて、1914年には第一次世界大戦が勃発する。ブルガリアは当初中立を維持したが、ドイツ・オーストリアにセルビア領マケドニアの割譲を約束され、1915年10月に同盟国側に参戦した。ドイツの軍事力もあって一時はルーマニアからドブルジャ地方を奪還し、セルビアからマケドニアを奪ったかに見えたが、1918年9月には連合軍がマケドニアを突破、ブルガリア軍は崩壊し降伏を余儀なくされ、国王フェルディナントは退位した。翌年のニュイイー講和条約でブルガリアはエーゲ海への出口であるトラキアをギリシャに、ドブルジャをルーマニアに割譲させられた。
 1920年の第一回議会選挙では農民党が第一党になり、アレクサンダル・スタンボリスキが首相になったが、3年後にアレクサンダル・ツァンコフ率いる軍部のクーデターで殺害され、次いで発生した共産主義者の反乱は弾圧された。1934年には再び国政刷新を唱えるグループ「ズヴェノ」のゲオルギエフ大佐ら軍部のクーデターが起きるが、翌年国王ボリス3世が独裁権力を握る。
 第二次世界大戦が勃発(1939年)するとブルガリアはしばらく中立を保っていたが、1941年にバルカンに戦火が及ぶと他のバルカン諸国に倣い日独伊三国軍事同盟に加盟、ドイツのユーゴスラヴィア(セルビア)侵攻作戦に参加し、再びマケドニアを奪った。しかしドイツは同年開始したソ連との戦争に敗れ、1944年にソ連軍がブルガリアに迫ると、ブルガリアでは共産党などによるクーデターが起き、新政権はキモン・ゲオルギエフを首班に指名して逆にドイツに宣戦布告した。
 戦後の国民投票により王制は廃止され、9歳の国王シメオン2世は追放され、ブルガリアは人民共和国を名乗る。

 1946年の総選挙では共産党が勝利、ソ連帰りのゲオルギ・ディミトロフが首相に就任した。同時に野党に対する苛酷な粛清が始まった。1947年には新憲法が制定され、産業の国有化、農業の集団化など社会主義政策が推進された。1950年に首相に就任したヴルコ・チェルベンコフは政敵を次々に粛清し「小スターリン」と呼ばれたが(中央政治委員40人のうち17人が処刑された)、1953年にスターリンが死ぬと首相・第一書記の座をトドル・ジフコフに譲った。以後実に35年の長きにわたりジフコフは独裁的な権力を維持することになる。ジフコフは親ソ路線を堅持し、ブルガリアは「ソ連の16番目の共和国」とまで呼ばれることになった。
 ジフコフは1971年には憲法を改正して国家主席に就任した。しかし計画経済が行き詰まる中、1978年には党内反対派を粛清し三万人を党から除名、1982年からは西側の技術を導入し、さらに1984年には自由化を謳った経済改革を行った。しかし急激な改革は却って債務の増加を招いた。一方1984年には国民の一割を占めるトルコ系住民にブルガリア名を強制し騒乱も起きた。
 1989年、一連の東欧変革に刺激されて世情が騒然となり、トルコ系住民30万人が国外に脱出する騒ぎになる。11月にジフコフは突如辞任した。自由化を求めるデモが続く中、1990年1月には野党との「円卓会議」が開催され、共産党の一党独裁は放棄され、6月には総選挙が行われ、11月には国名がブルガリア共和国と改められた。
 経済改革は効果をなかなか現わさず、社会党(旧共産党)が政権に復帰する事態も起きた。2001年の選挙では元国王であるシメオン・サクスコブルクゴーツキの率いる「シメオン2世国民運動」が勝利し、首相に就任して注目を集めた。
 ブルガリアは2004年にNATOに加盟し、また2007年のEU加盟が予定されているが、経済改革の遅れや高い失業率、絶えない汚職を問題視する声もあり、前途は楽ではない。



2006年05月12日

ルーマニア

 ルーマニアは面積23万平方キロ(日本の本州と同規模)、人口2200万人を数える、バルカン半島では最大の国である。東は黒海に面し、南の国境は平野部を貫流するドナウ河でブルガリアと接しているが、国土の中央を北から西にかけて大きくうねるようにカルパチア山脈とトランシルヴァニア山脈が走っている。プルート川でモルドヴァ共和国と接する北東部をモルダヴィア、ドナウ側の北岸にあたる南部をワラキア、中央山脈部の北西側でハンガリーやセルビアに接する地域をトランシルヴァニアと呼ぶ。
 首都ブクレシュティ(ブカレスト、人口190万人)はワラキア地方のほぼ中央にある。国民の36%が農業に従事する農業国であるが、山地の多い国土は鉱物に恵まれ(油田やガス田もある)、鉱業も重要である。国民の9割弱はルーマニア系だが、トランシルヴァニアを中心にハンガリー系(6%)やドイツ系、そしてロマ(ジプシー)も居る。
 僕はドイツでの留学先でルーマニア人と知り合ったが、「バルカンの中のラテン民族」と呼ばれるだけあって、彼も精力的で陽気な人である。

 「ルーマニア」(原語ではローマニア)の国名のおこりは、ローマ人の末裔という意識に基づいている。すなわち現在のルーマニア西部にあたる地域は106年に皇帝トラヤヌスによってローマ帝国の属領ダキア州とされ、多くのローマ人が入植した。現代ルーマニア語は、周辺国ではスラヴ系言語がほとんどなのに対して、ラテン系言語に属する。
 ただしローマ以前のルーマニアは無人もしくは非文明地帯というわけではなく、既に紀元前4000年頃から洗練された彩文土器をもつククテニ文化が栄えるなど、むしろヨーロッパでも最古の農耕文化の伝統があった。紀元前一千年紀には黒海沿岸に海路ギリシャ人が入植し、また先住民として勇武で知られたダキア人やケルト人、そして騎馬民族のトラキア人やスキタイ人などがおり(紀元前512年にはアケメネス朝ペルシア帝国の大王ダレイオスの遠征を退けている)、彼らが新たな支配者のローマ人と混合したことは想像に難くない。
 しかし頽勢に入ったローマ帝国は271年にダキア州を放棄し、その地はゲルマン系の西ゴート族の占めるところとなる。さらにその後もルーマニアの地にはフン族(5世紀)、ゲピド族(ゲルマン系、5世紀)、スラヴ族(6世紀)、アヴァール族(6世紀)、ブルガル族(トルコ系、7世紀)、マジャル族(ハンガリー人、9世紀)、ぺチェネグ族(10世紀)、クマン族(12世紀)、モンゴル軍(1242年)、タタール族(1285年)など、東方で地続きのユーラシア・ステップ地帯から騎馬民族などが次々とやって来た。
 ローマ帝国がいち早く放棄したはずのダキアに集中的にローマ系住民が残るというのは奇妙な話で、実際のところラテン系言語を話す集団はルーマニアのみならずバルカン半島の各地に点在していた。現代のルーマニア人とローマ人を連続視するのは、民族伝説としてはともかく、言語を除いて根拠に乏しい。かつて民族紛争で対立したハンガリーなどでは、現代ルーマニア人は中世に移住して来た山岳牧畜民ワラキア人の子孫にすぎないと主張されたが、民族起源の詮索は詮のないことだろう。

 ルーマニアの地に地生えの国家が形成されたのは、14世紀半ばにモルダヴィアとワラキアの両地方に公国が成立したときである。これらの地域は10世紀頃にビザンツ(東ローマ)帝国からの伝道によってキリスト教(ギリシア正教)に帰依していた。一方トランシルヴァニア地方は既に13世紀にハンガリーの支配下に入っており、カトリックのハンガリー系やドイツ系住民(ハンガリー王に招聘された)が多くなっていた。
 しかし同時期に小アジアで勃興した、イスラム教徒のトルコ人王朝であるオスマン帝国は、その版図を急速に拡大していた。早くも1394年にワラキア公国はオスマン帝国の属国となった。ワラキア公国ではその後の15世紀後半、「串刺し公(ツェペシュ)」(捕らえたトルコ兵を串刺しにし晒した)のあだ名で知られ吸血鬼ドラキュラ伝説のモデルとされるヴラド3世がオスマン帝国に頑強に抵抗したが、すぐれた支配・軍事組織をもつオスマン帝国には敵すべくもなかった。同様にモルダヴィア公国でもシュテファン3世がトルコやリトアニア=ポーランドを相手に独立を維持したが、彼の死後1512年にオスマン帝国の属国となった。ハンガリーがオスマン帝国に敗れたのち1541年にはトランシルヴァニア地方もオスマン帝国の一州となる。
 第二次ウィーン包囲(1683年)の失敗を機に、ハンガリー王位を兼ねるオーストリアはオスマン帝国に対して反撃に転じ、1699年のカルロヴィッツ条約でトランシルヴァニアを含むハンガリー領土はオーストリアの支配下に入った。しかしワラキアとモルダヴィアの両地方は依然としてオスマン帝国の支配下に置かれた。

 19世紀に入ると、オスマン帝国の支配下にあるバルカン半島の諸民族の間に民族主義が広がり始め、その勧進元はバルカンに野心をもつロシアやイギリスといったヨーロッパの列強だった。1821年、ギリシャに続いてモルダヴィアやワラキアでオスマン帝国に対する叛乱が起きる。ギリシャはロシアや英仏の支援もあって独立を達成したが、両地方のほうは失敗に終わった。しかし1853年にキリスト教徒保護を名目にロシアが始めたクリミア戦争の講和条約で、モルダヴィアとワラキアはオスマン帝国内での自治を認められ、両地方を統合したルーマニア国家の樹立が1861年に宣言された。
 新国家では教会財産が国有化されて農奴の解放や法整備などが進められ、国王には1866年にドイツのホーエンツォレルン・ジグマリンゲン家からカロル(カール)1世が迎えられた。1878年にオスマン・トルコが再びロシアに敗北すると、ルーマニアは正式にオスマン帝国からの独立を列強に認められ(1881年)、ドイツ式軍隊の育成や鉄道の敷設、そして当時の新しいエネルギー資源だった石油の採掘が進められた。なおこの当時トランシルヴァニアはオーストリア=ハンガリー領だった。

 バルカンを巡り激化したドイツ・オーストリアとロシアの対立は、ついには1914年の第1次世界大戦勃発に至る。ルーマニアは当初中立を宣言したが、隣国オーストリア=ハンガリーとはルーマニア系住民の住むトランシルヴァニア地方の領有を巡って対立していた。連合国(英仏露)は同地方を好餌にルーマニアの参戦を促し、1916年にルーマニアは連合国に加わった。ところが劣弱なルーマニア軍は独墺及びブルガリア同盟軍に圧倒され年末までにほとんど全土を占領されてしまい、さらに革命でロシアが連合国から脱落したのちの1918年5月に降伏同然の講和条約を締結した。
 しかし幸運なことに、その半年後に今度はドイツ・オーストリアが連合国に降伏同然の停戦に応じた。軍事的に完敗しながら勝者の列に加わったルーマニアは、戦後の講和条約で「民族自決」の原則をたてに、ハンガリーからトランシルヴァニア地方を、ロシア(ソヴィエト連邦)からベッサラビア地方を得た。ルーマニアは居ながらにして従来の倍の領土(「大ルーマニア」)を手にし、またハンガリーでの共産革命や王政復古の動きに介入した。
 内政では自由選挙などが導入されたが、農地改革の頓挫によって国民の大多数を占める農民の不満は収まらず、また国民の四分の一を占める少数民族(ハンガリー、ドイツ、ユダヤ、ウクライナ系など)の扱いにも苦慮した。政治の混迷の中、ファシズム政党の鉄衛団が組織され(劇作家イヨネスコや宗教学者エリアーデも、若い頃はその支持者だったという)、1938年には憲法が停止され国王カロル2世の独裁体制となる。
 ナチス・ドイツの台頭と侵略によって第2次世界大戦が始まると(1939年)、ルーマニアは隣国・ソ連の圧力をかわすためにドイツに接近した。一方ドイツにとって、戦争を遂行する上でルーマニアのプロエシュティ油田はかけがえの無い資源だった。だがドイツはバルカンでの勢力均衡のため1940年8月に安全保障を条件にルーマニアを強要し、独ソ不可侵条約を結んでいるソ連にベッサラビアを、またハンガリーにトランシルヴァニアを割譲させた。カロル2世は退位に追い込まれるが、ルーマニアはドイツに頼るよりなかった。
 翌年始まる独ソ戦にルーマニアはドイツの同盟国として参戦しオデッサなどを得たが、スターリングラードで包囲殲滅されて以降戦況は不利となった。1944年8月、ついにソ連軍はルーマニアとの国境に迫る。慌てたルーマニアでは親独派が逮捕され駐留ドイツ軍に撤兵を要求するが、ドイツは空襲でこれに答え、ルーマニアはドイツに宣戦布告しソ連と停戦した。翌年第2次世界大戦は終わったが、ルーマニアを含む東欧諸国は戦勝国ソ連の圧倒的影響下に入り、その支援する共産党が政権を握ることになる。ルーマニアはソ連へのベッサラビア(現在のモルドヴァ共和国)割譲を認め、賠償金を支払った。

 戦後すぐの選挙では共産党主導の政党連合が圧勝し、選挙操作を疑う野党は弾圧された。1947年には国王ミハイが退位して人民共和国となり、翌年ゲオルゲ・ゲオルゲウ・ヂェイを書記長(のち首相、国家主席に就任)とする社会主義統一党が結成され、農業の集団化、産業の国有化、計画経済が行われた。しかし社会主義陣営内でスターリン批判(1956年)をきっかけにソ連と中国が対立すると、ルーマニアは中立の立場をとってソ連と距離を置き(この動きは北朝鮮と好一対である)、独自路線を推し進めることになる。この立場を可能にしたのは、同国のもつ石油資源の強みだったという。ルーマニアは西側、特にフランスに接近して外資を導入した。
 1965年、ゲオルゲウ・ヂェイの死により党書記長に就任したニコラエ・チャウシェスクもこの路線を引き継いだ。1967年に国家評議会議長に就任した彼は翌年の「プラハの春」(チェコスロヴァキアでの改革運動)に対するソ連の軍事介入を非難する。この姿勢は西側諸国に好感をもたせ、1969年にはアメリカのニクソン大統領がルーマニアを訪問している。1974年には憲法改正で大統領に就任し、権力基盤を強固なものとした。
 しかしその政治はやがて強圧的なものとなり、信教の自由が制限されて教会が破壊され、秘密警察による監視が行われるようになった。国内では物資が不足しているにも関わらず外貨獲得の為に輸出が奨励され、彼自身は「国民の館」と称する自分の宮殿の建設に莫大な費用を投じた。こうした事態は隠匿され、東側諸国のほとんどがボイコットした1984年のロサンゼルス五輪にも参加したルーマニアは、なお西側諸国に最も近かった。
 東西冷戦でソ連が敗れたのが明白になった1989年、ソ連の影響下にあった東欧各国でドミノ倒しのように共産党政権が倒された。その波はやや遅れてルーマニアにも及び、かつての女子体操のスター、ナディア・コマネチが11月に亡命したのはその予兆ともいえた。12月には西部チミショアラでハンガリー系牧師に対する弾圧をきっかけにデモが発生、やがて首都ブカレストに飛び火し軍の一部が参加した騒乱となった。演説のため登壇したチャウシェスクに対し御用動員されたはずの群集が罵声を浴びせ、事態の急を悟った彼は国外に脱出しようとしたが捕らえられ、即決裁判によってエレナ夫人と共に銃殺された。一連の東欧変革の中で最初の流血となった。
 翌年行われた自由選挙では国民救国戦線のイオン・イリエスクが大統領に選出された(断続的に2005年まで在任)。しかしそのイリエスクが元共産党幹部だったことが端的に示すように、自由経済への改革は遅々として進まなかった。外交では隣国との和解が進められたが、国内にはなおモルドヴァとの統合を目指し大ルーマニア実現を主張する勢力も存在する。
 2004年にはNATOに加盟し、またEUへの2007年加盟が目指されているが、汚職や経済改革の遅れ(一人あたりGDPは2900ドルとヨーロッパで最低レベル)を指摘する厳しい意見もある。また最近は基地供与などでアメリカにも接近している。



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